塞王の楯 今村 翔吾

今村翔吾
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~「最強の楯」×「至高の矛」究極のエンターテインメント戦国小説~

こんにちは、くまりすです。今回は、直木賞受賞作品今村翔吾塞王の楯』をご紹介いたします。

story:幼い頃、落城によって家族を喪った石工の匡介。彼は「絶対に破られない石垣」を造れば、世から戦を無くせると考えていた。一方、戦で父を喪った鉄砲職人の彦九郎は「どんな城も落とす砲」で人を殺し、その恐怖を天下に知らしめれば、戦をする者はいなくなると考えていた。秀吉が死に、戦乱の気配が近づく中、琵琶湖畔にある大津城の城主・京極高次は、匡介に石垣造りを頼む。攻め手の石田三成は、彦九郎に鉄砲作りを依頼した。大軍に囲まれ絶体絶命の大津城を舞台に、信念をかけた職人の対決が幕を開ける。ぶつかり合う、矛楯した想い。答えは戦火の果てにー。「最強の楯」と「至高の矛」の対決を描く、圧倒的戦国小説!(「BOOK」データベースより)

矛と楯

戦で家族を失った匡介は穴太衆と呼ばれる石垣職人集団の頭・源斎に拾われ、相弟子の玲次や職人仲間と切磋琢磨し、城の石垣作りの技術を学んだ。一方で、国友衆と呼ばれる鉄砲職人集団の後継者・彦九郎は匡介をライバル視していた。城を守る石垣と攻める鉄砲。楯と矛、どちらが優れているかは戦で証明される。職人の魂をかけた戦いがまさに始まろうとしている。

石垣の美しさは堅さ。それに尽きる

中世までの石垣は小規模なものしか存在しませんでした。
日本に鉄砲が伝来し、戦に使われ始めると、その攻撃を防ぐために土塁に変わって石垣が採用されるようになりました。中でも、織田信長によって築かれた安土城は初めて石垣に天守の上がる城として画期的なものでした。そして、その普請を手がけたとされる石垣職人集団が「穴太衆」なのです。
石垣作りは奥が深く、その積み方によって城の強固さが変わり、戦が左右されるほど。
彼らはその技術を持って堅牢な石垣を築き、敵から城を守る役割を担っていました。

穴太衆の中で当代随一の技を持つ者が塞王の称号を名乗ることになっていた

石を切り出す、石を運ぶ、石を積む、そして石と話す。匡介は城を守るため、ひいては民を守るために技術を磨き、塞王と呼ばれる源斎の背中を追い続けていた。

彦九郎の師は国友三落と謂う。その号は、一日で三つの城を難なく落とせるほど、優れた鉄砲を創ることに由来する。国友随一の者が呼称される「砲仙」の名で畏怖を集めている。

織田信長が長篠の戦で使った鉄砲は堺と国友の鉄砲鍛冶のものだと言われています。特に、国友衆が新しく作った鉄砲は伝来したものよりも格段に質が良かったそうです。また、装飾など見た目に凝った堺の鉄砲と比べ、質実剛健。それはいかに早く、いかに遠く、そして容易く敵を仕留められるかということを追い求めた、いわば殺傷を極めようとした鉄砲でした。
信長の死後、秀吉の配下になり、国友は国髄一の鉄砲生産量を誇るまでになりました。

だからこそ赤子でも恐ろしさが解るほどの砲を作る

匡介にライバル心を燃やす彦九郎もまた、己の信念のために技術を磨いていました。
鉄砲と石垣の技は、奇しくも戦の表裏として競い合うようにして磨かれたのです。

時は戦国の世、やがて「塞王」「砲仙」二人の天才を師に持つ二人に対決の時が近づいてきます。
方やどんな城でも打ち破る至高の矛。
方やどんな攻めも撥ね返す最強の楯。
信念をかけた職人の対決が今幕を開ける。

歴史と石垣

徳川家康(東軍)と石田三成(西軍)が激突した関ケ原の野戦、「関ヶ原の戦い」は有名ですが、その他にも全国各地で数々の東軍と西軍の戦が繰り広げられていました。その中で、「関ヶ原の戦い」の前哨戦と位置付けられるのが「大津城の戦い」です。この戦は、本戦「関ヶ原の戦い」に多大な影響を及ぼしました。

大津城の戦い
豊臣秀吉の死後、徳川家康(東軍)と石田三成(西軍)らの対立が表面化し、各地で戦闘が行われていました。
北陸や伊勢方面の平定に乗り出していた西軍の前に、突如、東軍に寝返った近江大津城の城主・京極高次が手勢3,000名を率いて大津城に籠城し、立ちはだかります。(「最初から東軍方であった」が西軍諸将が西軍につくと思い込んでいたという説もあります)
西軍側は毛利元康を大将とし、それに立花宗茂ら諸大名の軍勢を中心とした総勢1万5000人の軍勢をもって、大津城に対して包囲攻撃を開始したのです。(『ウィキペディア(Wikipedia)』より)

石垣
石垣には様々な積み方があり、穴太衆はその時の状況に合わせて積み方を変えます。

「野面積み」(本文より)
野面積み積む場所の地形に合わせて、様々な大きさの石を組み合わせて積んでゆく。それは切り出したものではなく、その辺に転がっている石でもよい。とにかく石を選ばないのである。

(『ウィキペディア』石垣の積み方・打込み接ぎより)

「打込接(うちこみはぎ)」(本文より)

積み石の合端、つまりは接合部分を加工し、石同士の接着面を増やしてより隙間を亡くす方法である。そのため、打込接で造った石垣は上りにくいという特徴がある。(中略)だが、打込接で造った石垣には、目に見えぬ大きな弱点がある…(後略)。

(『ウィキペディア』石垣の積み方・切込み接ぎより)

「切込接(きりこみはぎ)」(本文より)

切込接とは打込接から一歩進んだ工法ともいえる積み方で、石の接着面を徹底的に削って密着させ、隙間を全てなくすというものである。(中略)何より見栄えが良い。だが、打込接が持っている弱点よりも顕著になり…(後略)。

(『ウィキペディア』熊本城”武者返し”の石垣より)

「扇の勾配」(本文より)

横から見ると反り返り、まるで扇を開いたかのような曲線を描く石垣の事をそのように言う。

別名は武者返し、あるいは忍び返しなどと言う積み方である。

感想

「モノづくりニッポン」というくらい世界でも一目置かれている日本の職人の技術。
例えば、海外のシェフがわざわざ買い付けに来る包丁などの伝統工芸や、0.01ミリ単位を自在に操る精密部品など、見た目にも美しく繊細で実用性、耐久性もある。そういったものが昔から職人の手によって数多く生み出されてきました。丁寧な仕事で、いっさいの妥協をせず、こだわりを持って作られたものは時代を経ても色褪せず素晴らしいものばかり。海外でも高く評価されていますね。

しかし、そういったものは長持ちさせるためには手入れや修理などの手間が必要です。忙しく節約志向の我々現代人は、安価で便利なコストパフォーマンスが良い大量生産品ばかりを求め、次第に職人の技術を必要としなくなりました。職人の後継者がいなくなり、その技術は衰退の一途をたどっています。

物語に出てくる穴太衆も次第に数が減っていきましたが、唯一今も穴太衆を名乗っている職人たちがいるそうです。そして、その技術で安土城や竹田城などを始めとする城の石垣修復などに携わり活躍しています。
地震で倒壊した熊本城の石垣も元々は穴太衆が築いたものですが、補修の際、穴太衆の技術が使われませんでした。もし、穴太の技術のままであれば、あそこまで倒壊することもなかったとも言われています。その強度はコンクリートブロックにも勝るとか。

長年の経験に裏打ちされた確かな技術、匠の技。
プライドと意地をかけて仕事をしている姿はとても格好いい。彼らの充実感を想像して、羨ましく思いました。

著者:今村翔吾(イマムラショウゴ)
1984年京都府生まれ。2017年『火喰鳥 羽州ぼろ鳶組』でデビューし、2018年に同作で第七回歴史時代作家クラブ賞・文庫書き下ろし新人賞を受賞。同年「童神」(刊行時『童の神』に改題)で第一〇回角川春樹小説賞を受賞、第一六〇回直木賞候補となった。2020年『八本目の槍』で第四一回吉川英治文学新人賞を受賞。同年『じんかん』で第一一回山田風太郎賞を受賞、第一六三回直木賞候補となった。2021年、「羽州ぼろ鳶組」シリーズで第六回吉川英治文庫賞を受賞(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)(「BOOK」データベースより)
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