半自叙伝/無名作家の日記 菊池 寛

新思潮
記事内に広告が含まれています。

私は、最初の道を踏み迷ったために、一番正当なその代わり一番長い道を行こうと度胸を極めたものである。

こんにちは、くまりすです。今回は芥川龍之介の親友で、文壇の大御所とも呼ばれた菊池寛の「半自叙伝/無名作家の日記」をご紹介いたします。

story

『文藝春秋』を創刊し、出版人としても功成り名を遂げた菊池寛(1888-1948)。生い立ちから紆余曲折を経ながら作家として世に出る頃までを描いた「半自叙伝」。他に、自身をモデルにした短篇小説二篇、恩師・上田敏と友・芥川龍之介についての回想文を収録。(「BOOK」データベースより)

目次:
半自叙伝/無名作家の日記/葬式に行かぬ訳/上田敏先生の事/晩年の上田敏博士/芥川の事ども(「BOOK」データベースより)

菊池寛という名前はどれくらい認知度があるのでしょうか。彼は文芸春秋社を興し芥川賞直木賞を創設した人物です。久米正雄の紹介でも書きましたが、芥川龍之介菊池寛久米正雄成瀬成一松岡譲第四次新思潮のメンバーでもあります。

半自叙伝

菊池は会社を興してからはいつでも人におごるくらい裕福になりましたが、生家は貧乏でした。
この自叙伝は貧乏エピソードと共に彼の半生がに綴られています。

彼は小さい頃からかなり勉強が出来ていたようです。また、幼少時代は割合可愛い子供であったらしい(本人談)。十四、五歳くらいから容姿にコンプレックスを抱くようになったのだとか。余談ですが久米正雄も十八まで美少年だったらしい(本人談)。

子供の頃の話はトンボ釣りの話や百舌狩などの遊びの思い出を語っています。
(広津和郎や小島政二郎もこのトンボ釣りをやっていたようで、この時代はこの酷極まりなり遊びが流行っていたようです。)
その後、秀才と言われた彼の長い勉学&貧乏人生が幕を開けます。

高等小学校に4年間通う。この学校は今でいえば、中学校第1学年・第2学年に相当します。
👇
中学2年の時、父親の希望で師範学校(教員を養成する学校)を受験するも試験会場での態度動作が乱暴なため落第し、結局そのまま中学を5年間通う。
ちょうど高松に図書館が出来、学校よりも熱心に通ったそうです。

落第するくらいの態度って…?
👇
東京高等師範学校に入学するも1年3,4カ月で除名処分になる。
元々気の進まない進路だったこともあり、教科書を持たないで授業に出たり、学校を休んで芝居を見に行ったり、不真面目な態度だったようです。除名処分になるきっかけは、講義中にノートを忘れていることに気づいて取りに帰った時に、テニスをやっているのを見て自分もやってみたくなり学科を休んだこと。その時の言い訳がまた、いけなかった。
頭が痛くて休んだが、テニスをすれば治るかと思ってやった。
これが原因で除名処分になり、この間の家からの仕送りも当然無駄になった。

こんなこと言えるなんて、どんな強心臓の持ち主なんでしょう?「さすがの私も悲観した」とありましたが、いや、むしろ悲観するのが普通です。文豪のやることは破天荒過ぎてよくわかりません。
👇
短日月の間に身を立てる手段として、法律を勉強して弁護士か司法官の試験を受けようと新しい目標を定めた頃、タイミングよく養子になることを条件に学費を出してくれるという人が現れる。

立ち直りが早いのもこの方の取り柄の一つですね。学費を出してもらえるなら進んで養子になるなんて、この時代は養子の話も普通だったのでしょうか?
👇
明治大学へ入学するも気が変わり翻訳をしてみたくなったので、3カ月で退学する。
その後、図書館通いをして過ごす。

いやいや、決断が早すぎる。でも、理由が前向きなのはいいことです。
どうせ、人より四年遅れているのだから、一層腰を落ち着けて、自分の一番性に合う文学をやろうと決心した。」この時、高等学校からやり直して大学へ行くことを決意します。ノートに次のような覚書を書きました。「最初翻訳をやり、それに依って、文壇に名を成して行くこと。
👇
徴兵猶予の為早稲田に入学。
一高入学の希望を伝えると養父から離縁される。

学費が8年になったのだから離縁は致し方ないことです。
👇
一高へ入学する。
芥川龍之介久米正雄成瀬成一松岡譲らと知り合う。成瀬は法科志望だったが、菊池に感化されて文科へ。

初めて食べたカツレツや仲間と行った旅行の話など、菊池曰く享楽的な学生生活のエピソードが載っている。書きぶりからもこの一高時代は彼らにとって充実した青春時代だったことが伝わってきます。ちなみに松岡は出席日数の計算を間違えて落第。
楽しい一高の学生生活もマント事件により3年と1カ月で退学になる。

マント事件
菊池はある盗難事件の濡れ衣を着せられるのですが、最終的に当時の親友の罪を被って一高を退学することになりました。このエピソードは菊池寛の兄貴肌の性格が良く出ています。

👇
寮を出たため住むところがなかったが、成瀬成一の父(銀行の支配人をしていた)の好意により、成瀬家に寄食させてもらう。また、懸賞小説や、批評で小銭を稼いで凌いでいた。

当選するところが凄いです。
👇
京都大学へ入学
この4年間がとても苦痛だったらしく「無名作家の日記」などにも当時の孤独な心境を吐露しています。気の合わない仲間との不毛な学生生活を送っている間も、一高時代の仲間の活躍ぶりを指をくわえて見ていることにかなりのプレッシャーを感じていたのだとか。そんな中でも、小説家になることをあきらめずに何とかきっかけを掴もうと奮闘する姿勢が描かれています。

この時、東京の芥川久米成瀬松岡らに声をかけてもらい、第三次「新思潮」の同人になっています。菊池は、この時、声をかけてもらえなかったら、どうなっていたかわからないと言っている。
👇
京都大学を卒業。
新思潮」の活動をしつつも、原稿が売れる気配がなかった為、成瀬氏に就職口を紹介してもらったが、ダメだった。その後、久米の紹介で翻訳の仕事にありつくが、これも出版社が失敗したので一文にもならなかった。

つらい…こんなことが起こっても自棄にならないんですね。
👇
成瀬氏のつながりで時事新報への就職を果たす。
この時、渋沢栄一にも会っているそうです。しかし、新聞記者の仕事は肌に合いませんでした。
(ちょうどこの頃、芥川があの「」を出していました。)
実家への仕送りが必要でしたのでお金がなく、再び成瀬家へ寄食することに。しかし、いつまでも成瀬氏の家にやっかいになるのも気が引けるため、財力のある婦人と結婚を企てます

成程、その手があったか!とはならないでしょ…しかしこの時代、彼の高学歴は将来を有望視されて当然だったそうで、候補者が幾人かいたそうです。運命にも負けない男。
👇
資産家の女性と結婚する。
余談ですが、ちょうどこの頃、久米夏目漱石の令嬢と恋愛問題で騒いでいた時期です。
芥川久米も原稿の注文があったので、同人を続ける必要がなくなり「新思潮」を休刊。そしてこの頃から菊池芥川と親しくなっていきます。
余談ですが、菊池の新居に失恋をしてその悲しみを訴えに来た久米と偶然やってきた松岡鉢合わせたことがあり、その間の詳細は「友と友の間」に書いているそうです。

漱石の令嬢との結婚にまつわる因縁の二人…いや、ぜひ読みたい!

子供もでき、精力的に執筆活動を行う。
👇
2年半続けた新聞記者を辞め、芥川と長崎へ訪れる。
この頃から芥川一番仲良くしていた時期でもありました。

菊池はここで一旦筆を置いて半自叙伝としています。これ以上は「発表は死んだ後でならなければ困るかもしれない」とのこと。でも、私としては芥川のいい思い出で止めておきたいという都合の良いように解釈したいと思います。

この半自叙伝を読んで、菊池寛は、かなり明け透けな性格で、歯に衣を着せぬ物言いをする印象を受けました。彼は少年時代に万引きをしたことを語っていますが、それを始めた理由ややめたきっかけなど、一連の描写が菊池寛らしい文章で、それが一生のトラウマになるところは彼の真面目な性格を表していると思います。

また、夏目漱石についても「私は昔から漱石の作品は嫌いではないまでも、尊敬は出来なかった。同僚の芥川や久米が崇拝するのが、不思議でならなかった。」とはっきり言ってます。

友人については、久米の話が良く出てきます。菊池が書いた作品を久米だけは褒めてくれたなど、文学においても認め合っていた仲だったようです。
文藝春秋を興してからも頻繁に久米の家に遊びに行っていたようで、中央公論社の編集者とのケンカも久米が仲裁に行っているほど。(広津和郎「同時代の作家たち」より)

彼の人生は、小説以上にドラマチックなものでした。どんな困難が訪れようと前向きに考えることが出来、悩んでいた京都大学時代もなんとなくユーモラスに描かれていて、面白かった。これ一冊で菊池寛という人物が良くわかると同時に、彼の生き様にエネルギーを貰えます。夢を追いかける姿はこんなにも勇気づけられるものなんですね。欲を言うなら松岡君と成瀬君の活躍も書いてあげて欲しかった。

芥川の事ども

これは、親友の芥川龍之介の事や彼の自殺について書いたもの。芥川の自殺の原因など世間の噂を一蹴し、彼への想いを語っている。思いやりがあり、あまりに神経質すぎた芥川の性格、そして二人の交情や、後悔、感謝などを述べている。菊池芥川への想いが伝わってきます。

菊池寛は友人總代として以下の弔辞を読んでいる 👇

芥川龍之介君よ
君が自ら擇み 自ら決したる死について 我等 何をか云はんや
たゞ我等は 君が死面に 平和なる微光の漂へるを見て 甚だ安心したり
友よ 安らかに眠れ!
君が夫人 賢なれば よく遺兒を養ふに堪ふるべく
我等 亦 微力を致して 君が眠の いやが上に安らかならん事に努むべし
たゞ悲しきは 君去りて 我等が身辺 とみに蕭篠たるを如何せん
著者:菊池寛(キクチカン)
明治21(1888)年、香川県高松市に生れる。一高中退後、大正2(1913)年、京都帝大英文科に入学。第三次、第四次『新思潮』に参加、文壇にデビューする。大正12年には『文藝春秋』を創刊した。昭和10(1935)年、芥川賞、直木賞を創設し、後進の育成にも努力を惜しまなかった。11年、文芸家協会初代会長となる。23年、狭心症にて59歳で急逝(「BOOK」データベースより)

参考書籍「同時代の作家たち」広津和郎👇

久米正雄の紹介はコチラ☛「久米正雄」作品集
タイトルとURLをコピーしました