芥川追想

新思潮
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~芥川の生きた時代の回想~

こんにちは、くまりすです。今回は生前の芥川龍之と関わりのあった48人の回想集「芥川追想」をご紹介いたします。

story:

歿後90年を経て今も読み継がれる作家の愛惜やまざる面影と真実を巡りあった48人が手繰りよせ語る。彼の生きた時代を現出させると共に、芥川の作品の生成の秘密をも遠望させてくれる同時代人たちの回想。(「BOOK」データベースより)

目次:
1(芥川の事ども(菊池寛)/沓掛にてー芥川君の事(志賀直哉) ほか)/2(友人芥川の追憶(恒藤恭)/芥川君の戯曲(山本有三) ほか)/3(宇野に対する彼の友情(広津和郎)/芥川竜之介氏の死(水上滝太郎) ほか)/4(芥川君の思出(野口功造)/回想(西川英次郎) ほか)/5(『芥川竜之介全集』の事ども(小島政二郎)/心覚えなど(佐佐木茂索) ほか)/6(二十三年ののちに(芥川文)/父竜之介の映像(芥川比呂志) ほか)(「BOOK」データベースより)
付け足し:1饒舌禄(感想)(谷崎潤一郎)/是亦生涯(佐藤春夫)/芥川竜之介の死(萩原朔太郎)

芥川追想は彼の死後、文豪を始め芥川と交流のあった人物によって書かれた随筆や談話の雑誌掲載記事などをもとに一冊にまとめたもので、天才・芥川龍之介の素顔を知ることが出来ます。

芥川龍之介の人となり

性格

芥川は学生時代から落ち着いていて、文学においても既に成熟していたようです。理論整然とした話し方は説得力があり面白く、学生や先生からも一目置かれていました。それと同時に、インテリが少し鼻についたという声も。かなり臆病な性格だったらしく、一定の距離を保って人付き合いをしていたため、広く浅い関係交友関係でした。しかし、親しくなるととても親切で頼りがいがあったとか。

菊池寛自分は何かに憤慨するとすぐその相手に速達を飛ばすが、芥川にだけは一度もこの速達を出したことはない

志賀直哉今は誰の事を云ったか忘れたが、文壇の誰彼に対し、私が無遠慮に悪口をいうと、芥川君はその人のいい点をはっきり挙げて弁護した。それは私に反対しようというのではなく、純粋な気持ちに感じられ、私は大変いい印象を受けた

谷崎潤一郎生前、私なぞに対しても、極く打ち解けた場合にはずいぶんアケスケにいろいの意見を述べたものだが、そんなときには私はいつも故人の批評眼の正確にして卓越していること、その趣味の広汎なこと、学問の幅の広いこと、古今東西の芸術はもとより人物評などでも可なり細かく、皮肉なところを見ていることにしみじみ関心したもので、ただの茶飲み話をしてさえ教えられることが多い(中略)人を傾聴せしむるに足る立派な意見を持ちながら、しかも勇気がないこと、ーこれ実に悲しむべき芥川君の欠点であった

萩原朔太郎思想上や芸術上のことで、ひどく絶望的な悩みを持っていた。自分をそれを語ろうとした。だが芥川君は聡明にもそれを予知して居り、私が口を利かない前に、先回りをして話しかけた。そして彼の一流の豊富の話題で、自分の考えていること、悩んでいることに議事を関連させ、最後に結論として、暗に私を鼓吹し、慰藉し、勇気と力をあたえてくれるように仕向けてくれた

松岡譲芥川は聡明でお洒落で、それでいてチョット間が抜けており、かなりちぐはぐなところがあったり、非常な文化人であると同時に飯をきたならしく食い乍ら、ペチャペチャ喋るといった様な、一見野卑な一面もあった。(中略)また人には当たりのいい方で、相当なお世辞の安売りもする方だったが、そうかと思うと、影では痛烈な皮肉を浴びせるという油断のならない点もあった。しかしその後彼も自分の切れ味のいい皮肉を楽しむといった風があり、左程卑劣には見えなかった

読書家

非常に読書家だった芥川は、本を読むスピードがとても速く、内容もよく覚えていたそうです。芥川曰く、「邦文の書物や雑誌なら、三、四人と話をしながら読める」らしい。しかし、「誤解されたり失敬なやつだなんていわれるのが厭だから、知らぬ人の前などではけっしてそんなことはしません」と言ったそう。

萩原朔太郎芥川君は、詩に対しても聡明な理解をもってた。かれは佐藤春夫、室生犀星、北原白秋、高村幸太郎等の諸君の詩を、たいてい忠実に読破していた。のみならず堀辰雄、中野重治等、所謂新進詩人の作物にも、一通り広く目を通していた

久米正雄要するに彼は、何でも『出来ない。』と云いたくない男である。何でも『知らない。』と云いたくない男である。だから勉強する。そして一日でも本を放すと自分の進歩が止まったようで気持ちが悪いと云う。そして手許に有りとあらゆるものを読破して、いわば『知らない。』と云わぬ防備をする」(「芥川龍之介氏の印象」より)

愛煙家

芥川のヘビースモーカーは有名ですが、それにしても桁が違う。

佐藤春夫その晩彼は敷島を百八十本近く吸ったものだ。そうして僕はそれをたしなめると彼は戯れのように『吸っても悪し、止めても却って悪し、つまり同じことだよ、吸いたいのを吸わないでいるのは矢張り不愉快だよ』などと言ったものだ

島崎藤村が嫌い?

谷崎潤一郎曰く永井荷風や、夏目漱石藤村を嫌っていたらしく評判が悪かったとのこと。

谷崎潤一郎東京生まれの作家の中には島崎藤村を毛嫌いする人が少なくなかったように思う。(中略)最もアケスケに藤村を罵ったのは芥川で、めったにああ云う悪口を書かない男が書いたのだから、余程嫌いだったに違いない」(「文壇昔ばなし」より)

几帳面な性格、頭の良さがが仇に…

菊池寛皮肉で聡明ではあったが、実生活にはモラリストであり、親切であった。彼が、もっと悪人であってくれたら、あんな下らないことに拘らないで、はればれと生きて行っただろうと思う。」
「あまりに、都会人らしい品のよい辛抱をつづけ過ぎたと思う。

谷崎潤一郎兎にも角にも、もっと馬鹿であるか、もっと健康であるか、どっちかであればもっと幸福に暮らせたであろう

志賀直哉(芥川の死について)乃木大将の時も、(有島)武郎さんの時も、一番先に来た感情は腹立たしさだったが、芥川君の場合は何故か「仕方ない事だった」と云うような気が一番先に来た」
「それから私は自分がこういう静かな所にいるせいか、芥川君の死は芥川君の最後の主張だったというような感じを受けている

健康について

芥川は学生時代から運動もあまりせず、風邪をよくひいていました。酒はあまり飲める方ではなく、菓子が大好きだったとは彼を良く知る先生の言葉。

谷崎潤一郎五月八日の毎日新聞の「余録」に、芥川龍之介佐藤春夫の身体が立派なのには参った。という話が出ていた。私は、芥川佐藤と一緒に、よくふろにはいったことがあるので、この芥川の気持ちが分かるような気がする」(「佐藤春夫と芥川龍之介」より)

志賀直哉芥川君は風邪の引きかけで元気がなかった。見るからに寒そうなので、私は祖父譲りの毛羽織を芥川君に着せた(中略)芥川君は、直ぐ後から行くといっていたが、吾々がすっぽんやに着くと間もなく、直木君を電話で呼び出し、寒気がするからと断ってきた

小説について

谷崎潤一郎(芥川の小説について)それはこの世に生活するのに最も不向きな体質と気質とを持ち、しかも最も多方面な才能に恵まれ、最も明晰な頭脳を備えた一つの魂の、苦悶の歴史と見るときに私は多大の価値を感じる

谷崎潤一郎佐藤春夫芥川競争意識は、かなり激しかったように思う。私は佐藤から、芥川の作品の悪口を何度か聞いた覚えがあり、とくに『妖婆』という小説の批評は、ずいぶん手きびしかった」(「佐藤春夫と芥川龍之介」より)

島崎藤村芥川君が分け入った道の薄暗さを知るには『ある阿呆の一生』にまさるものはかろう。あの中に感知せらるるような作者の悲愴な劇場も、何人の仮面を剝いで見ようとしたようなあの勇気も、病人のように繊細なあの感覚も、世紀末的な詩人を思い出させる

松岡譲文章の彫琢には骨を折る方なので、一晩に何十枚も書きなぐるなどという事の絶対出来ない方で、むしろ遅筆だった

学生時代

芥川が高等学校に入学したのは優等生無試験入学制度の新定された、それこそ日本のよりぬきの秀才が入学してきた年だった。無試験の合格者は8人でそのうち芥川が2番で久米正雄が8番だった。
芥川は天才肌だが、努力家でもあり、暗記力も相当なものだったらしい。
勝負事が嫌いで、負かすことも負けることも嫌いだったと友人が語っている。
精神的に早熟で、プライドも高かった。

眉目秀麗

菊池寛眉目秀麗の才子だった」「(上級生が芥川の入学願書の写真を見て)これが一番シャンだと云った」(文庫「半自叙伝」より)

久米正雄世間の噂によれば、芥川はひどく美男だそうである

小島政二郎(初めて芥川宅を訪れた時)「壁の中へ作り付けの本箱の中はもちろん、棚の上、机のまわり、壁際の棚の上、至る所に外国の本が、豊かな感じで散乱していた。フランシス・グリヤーソン風に髪の毛を乱した芥川の、額の広い秀麗な顔が、青い空気の中に白く浮き出していた。なんともいえない澄んだ目をしていた。鋭くって瑞々しくって叡智に濡れていた。女のように長い睫毛が、秀麗な容貌に一抹の陰影を添えていた」(「眼中の人」より)

苦手なもの

松岡譲芥川字も絵も非常に下手糞で、僕たちが彼から手紙を貰っても慣れるまでは読むのにも骨が折れたものだ。(中略)晩年に至って、遂に下手は下手なりにどうにか我流にゴマ化して、少々よそ行きながら、自分流のスタイルを整えるに至ったが、天二物を与えず、でこの悪筆には才人の彼も相当苦労したようだ

まとめ

芥川龍之介は誰でも知っている有名な文豪だが、その人となりはこの本を読むまであまり知りませんでした。こういう風に他の文豪からの視点で芥川を知ることによって、彼の素顔とその時代の空気を感じることが出来、また各文豪の性格やその友情も文章から読み取れて面白かった。

ちょうど、芥川の小説が1冊手もとにあり、それが自殺の前後一年以内の作品ばかりだったので、この追想や考察と合わせて読みました。「ある阿呆の一生」や「歯車」は芥川の死後の発表で、その内容がこの自殺の原因を連想させるためいくつかの考察があったが、考察を読んだ後に小説を読むと、どの言葉や文章も意味深に感じてしまう。そして彼が晩年こだわった「筋のない小説」でさえ最後まで面白く読めたことで、彼の才能を再認識しました。

上に抜粋したものはほんの一部で、『芥川追想』は、およそ500ページに及ぶボリュームのある回想録で、室生犀星や内田百閒、里見弴らを始め多くの文豪の随筆。また編集者、学生時代の旧友の他親しかった人物の話も多数掲載されている。
その他、家族や芥川家の女中の話なんかもあって、芥川の死の前日やその朝の様子を知ることが出来て大変興味深かった。

芥川との関係

菊池寛
芥川の親友。「文芸春秋」を創刊し、芥川賞、直木賞を設けた。
関連ブログ☛菊池寛「半自叙伝/無名作家の日記」読書ブログ
久米正雄
芥川の親友。「ただぼんやりした不安」で有名な遺書『或旧友へ送る手記』は久米に宛てたとされている。
また、『或阿呆の一生』の原稿も久米に託した。
関連ブログ☛久米正雄「久米正雄作品集」読書ブログ
志賀直哉
芥川とは7年間に7度しか会ったことはなく、そこまで交流はなかったのだが、「互いに好意は持合って居た」と良好な関係だった。芥川が終始傾倒し続けた人物。
佐藤春夫
芥川の晩年に交流を深めた。ヨーロッパ旅行に芥川を誘い、どちらも乗り気であったが実現しなかった。
萩原朔太郎
田端に引っ越した際、芥川と知り合い、親交を重ねた。実は芥川のインテリな所が嫌味に感じ、劣等感から彼に対して不満と猜疑心を持っていた。しかし、全ては萩原の思い過ごしであり、自殺後そのことに気づく。「ああ!しかしながら今日、いかに私が明盲の鈍物にすぎなかったことだろう」とひどく後悔し、「彼は私の最も「親愛なる友」であったのだ」と語っている。
関連ブログ☛萩原 朔太郎・室生 犀星「二魂一体の友」
谷崎潤一郎
芥川との『文芸的な、余りに文芸的な』の「小説の筋の芸術性」をめぐる論争が有名。
芥川の命日7月24日は谷崎潤一郎の誕生日というのも何かの因縁だと語っている。
松岡譲
同人誌「新思潮」のメンバーの一人。芥川とは学生時代からの付き合い。夏目漱石の娘と結婚したことにより、久米正雄と仲違いする。

島崎藤村
色々な問題行動や、言動がある人物ですが、実際に芥川と不仲だったかは不明。

小島政二郎
作家。芥川に師事していた。著書に芥川と菊池との交流を描いた『眼中の人』や『芥川龍之介』などがある。
芥川龍之介(アクタガワリュウノスケ)
明治25(1892)年東京生まれ。東大在学中に豊島与志雄や菊池寛らと第三次「新思潮」を発刊。大正5(1916)年に発表した「鼻」が夏目漱石に激賞され、続く「芋粥」「手巾」も好評を博す。後年は、厭世的人生観に拠った作品を手がけ、また小説の「筋」をめぐり谷崎潤一郎との文学論争に至った。昭和2(1927)年、「ぼんやりした不安」から睡眠薬自殺(「BOOK」データベースより)
関連書籍👇(谷崎潤一郎「文壇昔ばなし」「佐藤春夫と芥川龍之介」はコチラから抜粋)
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